岩波講座日本歴史20(第2次)近代7

1976年7月

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日 本 フ ァ シ ズ ム 論


 

古屋 哲夫


はじめに
1 ファシズム把握の歴史的枠組み
2 日本ファシズムの胎動
3 日本ファシズムの形成過程
4 日本ファシズムの政治構造
注釈


2 日本ファシズムの胎動

1 国家改造論と国体イデオロギー
2 軍の「革新」派の形成



2 日本ファシズムの胎動



1 国家改造論と国体イデオロギー


 日本ファシズムとは、事実に即して言えば「天皇への帰一」という国体イデオロギーによって、国民を「アジアの盟主」たらんとする戦争政策に動員してゆく支配体制であったと言うことができる。そしてこうした方向への動きが最初にあらわれはじめるのは、第一次大戦の時期からであり、もはや明治国家の発展方式は行詰ってしまったという認識を出発点とするものであった。北一輝や大川周明が、日本ファシズムの先駆とされるのはこの点の認識において先駆的であり、そこからすぐさま国家主義の再建というテーマを引出してきたからであった。

 すでに第一次大戦のさなか、1915年11月から16年5月にかけて『支那革命外史』を書きあげた北一輝は、日英同盟を軸とする明治以来の対外政策が、中国革命の展開という新しいアジア情勢のなかではもはや反動的役割しか果せなくなったとし、対外政策の基本をアジアの支配者としてのイギリスに対決する方向に転換させるべきだと主張する。そして問題を「亜細亜の盟主」か「白人投資の執達吏」かと捉え、「亜細亜モンロー主義」を唱えるのであった(3)。同じ頃、大川周明はイギリスに支配されているインドの現状に眼をむけることによって、日本は「亜細亜の指導者」となるぺきだと説き、そうした理想をかかげる事が、沈滞した日本の現状を克服する唯一の道なのだと叫び始めていた。1916年10月『印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来』の「巻頭語」において、大川は次のように書いている。「大正の日本をして堕落、沈滞、腐敗に陥らしむる災厄の泉、不幸の源は、実に明治の理想に代つて大正の新日本を支配する理想の尚未だ確立せられざることである。・・・・・・・今日の急務は消極的に国民を縛るに存せずして実に積極的に国民の魂を熱火の如く燃立たらしむる雄揮なる理想の鼓吹に在る。而して斯の如き理想は、皇国をして亜細亜の指導者たらしめんとする理想の外にない(4)」と。つまり北にしろ大川にしろそのアジアの盟主論は、日英同盟 を基礎として連合国側に参戦しているという日本の現状への批判なのであり、同時にそれは、西欧への追随から、西欧への反撃へと発想の転換を要求することによって、国内体制を批判する視角を用意するものでもあった。

 第一次大戦がロシア革命とウィルソン主義とを結果したことは、日本にも大きな影響を与えた。国内では米騒動が爆発し、普選運動・労働運動が最初の高揚期をむかえる。朝鮮や中国では日本帝国主義に反対する大衆運動が、三・一運動、五・四運動として展開された。そしてこうした事態を上海からみつめていた北一輝は、1919年8月、『国家改造案原理大綱』(23年『日本改造法案大綱』と改題刊行)を執筆し、国家改造をアジアの盟主となる前提条件として提示することによって、ファシズムへの道を開いたのであった。それは簡単に言えば、国家改造によって、国内に「正義」を確立すると同時に国家の力を強化しないならば、アジアの盟主たりえないという発想にもとづくものであった。そしてこの国家改造が、議会主義的方法では達成できないものであり、「国民ガ本隊ニシテ天皇ガ号令者(5)」であるようなクーデターによる以外には実現できないのだと主張した点が、現状を行詰りと感じていた国家主義者たちに、強烈なショックを与えるものであったことは容易に想像し得るところであろう。

 猶存社を組織した満川亀太郎が、大川周明に依頼して北を上海から呼びもどし(6)、この『国家改造案』を獲得したことは、国家主義運動史における猶存社の地位を高からしめると共に、北の改造法案の影響力を拡大することにもなっていた。改造法案を通じて西田税を北に結びつけたのは満川であったし、大川もそこから大きな影響をうけていることは、彼の猶存社時代の著作『日本文明史』(21年10月刊)から明らかに読みとることができる。しかしそのことは北の発想がそのまま猶存社にうけいれられたということではなかった。問題の焦点は「天皇」であり、とくに大川が「天皇」に北とは異った位置づけを与えることによって、国体イデオロギーへの道を開いていったことに注目しておかなくてはならない。

 北は元来、万世一系的な天皇中心の歴史観を拒絶し、したがって天皇崇拝的国体論からは切れた地点から出発した思想家であった。彼が天皇の問題に眼を向けなおしてくるのは、辛亥革命に対する考察のなかで、革命の成否は変革の過程で国民統合の基軸を確立することができるか否かにかかっているとの命題をたて、そこから、国民の伝統的信仰の中心としての天皇を統合の基軸に据えることのできた明治維新は、革命の理想型であるとの結論を引出してきてからであった(7)。国家改造の構想においても、天皇を号令者とすることは、クーデターを成功させ、改造過程を円滑に実現するために必要な条件なのであり、したがってアジアの盟主となるための条件は、天皇の存在ということではなく、国家改造の成功そのことに求められているのであった。

 これに対して大川の場合には、日本文明の特殊性が日本にアジアの盟主となる使命を与えているとし、さらにその日本文明の特殊性を支える軸となるのが「皇統連綿」たる天皇の存在だというのである。彼はまず、仏教と儒教によって代表されるアジア文明を綜合し保存したところに日本文明の特殊性があるとし、「吾等の文明は全亜細亜思想の表現である」と主張するのであるが、その根拠については次のように述ぺていた。「而して世界に比類なき皇統の連綿と、未だ曾て異邦の征服を受けざる崇高なる自尊と、祖先の思想・感情を保つに至便なる地理的位置が日本をして亜細亜思想及び文明の真の保護者たるに適せしめた(8)」と。つまり、大川の理論でゆけば、日本は国家改造の成否にかかわらずアジアの盟主となる使命をもっているということになるのであり、したがってこの使命が達成されるなら北的な国家改造に固執する必要はなくなるわけであった。

 北と大川が対立し猶存社が解散するのは、1923年のヨッフェ来日問題をめぐってであったが、両者のその後の活動のちがいは、こうした天皇観の差によるものであったとも言える。大川の場合には以後、猶存社時代から関係していた社会教育研究所を主要な活動の場とし、更に25年2月には行地社を結成し4月から『月刊日本』を発刊しているが、この間、思想的には、国体イデオロギーの確立に主力を注いでいるのであった。

 ここで国体イデオロギーと呼んでいるのは、国家主権の所在を中心とする憲法論的な国体論とは異り、のちの国体明徴運動以後には、事あるごとに繰り返されるようになった意識と行動の根源を天皇に求めようとするイデオロギーを指しているわけであるが、その形成と普及の過程で大川の果した役割は大きかった。彼はまず、日本および日本人、つまり国家と個人の双方を支配する規範としての「道」という問題をとりあげる。そして宗教と道徳を区別せずにその全体を「道」として追求するのが東洋文明の特色であり、さらに日本の場合には、親を通じて自らの生命をさかのぽり、さらに天皇において生命の本源をみとめ「天皇に帰一随順(9)」することが「日本人の道」であり具体的宗教であると主張した。

 つまり「忠孝とは君父に於て自己の生命の本原を認めること、一層詳かに云へば、孝とは一家の兄弟子女が、各自の小我を超脱して、一家一門の生命の本原に帰一すること、忠とは国民個々の私を去りて、国家の生命の本原に帰一することである(10)」ということになる。そしてそこから「其源を英米の個人主義・功利主義・快楽主義・唯物主義に発せる民主主義的思潮」は「国家主義・理想主義・健闘主義・精神主義を生命として永遠に弥栄ゆべき日本精神とは、徹底して相容れざる思想(11)」として否定されることになり、あるいはまた、国家改造は「黄金の不当なる圧迫より民を解放する」「第二維新」でなければならず、維新は即ち「君民一体の実」を回復する「復古」でなければならないという図式が導かれてくるのであった。ここにはすでに、「小我を超脱し」「私を去りて」天皇に帰一、民主主義・個人主義の否定、維新は復古といった日本ファシズムの中核としての国体イデオロギーの諸特徴が出そろっていたと言えよう。

 北の場合には、こうした形の国体イデオロギーにとらわれることはなかったと思われるが、しかしそれが拡がることに反対した形跡もない。つまり、彼の活動をみると、天皇大権あるいは天皇の側近に関する問題をとりあげて政治問題化することにつとめており、どのような形であれ、とにかく天皇に関する関心を高めることをねらっていたとみられる。彼がこうした方向に没入してゆくことになったのは、宮中某重大事件にかかわることによって、朝日平吾という共鳴者を得たことを契機としていた。

 宮中某重大事件とは、皇太子(現天皇)の婚約者に色盲の遺伝があるとして、元老山県有朋が婚約の解消を主張した事件であった。猶存社は山県の主張に反対して立ちあがり、この最大の実力者と対決することをめざすわけであるが、その活動の中心は北であったと思われる。そしてそれは、天皇側近の旧勢力との戦いとして意識されたにちがいない。この事件は山県が自らの主張を撤回するという形で解決されているが、その半年後の21年9月には、朝日平吾が旧勢力打倒を唱えて安田善次郎暗殺を実行した。

 北にも送られた朝日の遺書(12)はその末尾の改革案によって北の改造案を読んでいたことをうかがわせるものであるが、その主眼は「富豪顕官貴族」つまりは既成の支配層のすべてを打倒することを訴えるものであった。彼は国民を天皇から隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているこれら支配層を打倒しないならば、「永年虐遇脅迫セラレシ貧者ノ深刻ナル怨恨心」は「吾国体ト相容レザル」外来の悪思想にとらえられてしまうにちがいない、日本はそうした危機に直面しているのだと叫んだ。そして自らの行動のよりどころを、「吾人ハ人間デアルト共ニ直正ノ日本人タルヲ望ム、直正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ」とする天皇の赤子観に求めていた。

 それは天皇への観念的一体化によって行動のエネルギーを引出そうとするものであり、まさに大川が展開する国体イデオロギーの方向にみあうものであった。北は朝日平吾的エネルギーが広まり高まることを国家改造の前提条件と考えるに至ったと思われるのであり、そこから天皇問題の政治化という活動方式に没入していったと理解しうるのである。宮中某重大事件以後、北は政友会の領袖小川平吉と結んで(13)、ヨッフェ来日反対運動、朴烈怪写真事件をおこし、また宮内省怪文書事件、不戦条約・ロンドン条約にかかわってゆくが、そのいずれもが、天皇大権・天皇側近・国体問題などにつながる問題であったことに注意しておきたい。

 結局のところ北と大川とはそれぞれちがった道を歩みながら、国体イデオロギーをはさんで相照応する活動を行っていたことになる。つまり大川の国体イデオロギーが浸透すれば、それだけ北の活動への共鳴が大きくなり、また逆に北の活動が政界を大きくゆさぶることが出来れば、それだけ国体イデオロギー浸透の可能性も増大するという関係が成り立っていたと言えよう。それは国家改造運動が、改造内容を宣伝・討議することなしに、天皇崇拝を煽り立てることを主軸とする方向へと展開していったことを示している。しかしそれはたんに国家改造論のイデオロギーとしての性格という観点だけから捉えうる問題ではなく、そうした方向に彼等が結びつきうる有力な勢力が形成されてきたという、情勢の変化とも関連する問題であった。

 猶存社が結成された1919年前後は、左翼運動に対抗して右翼団体が次々と結成されはじめた時期(14)という意味で一つの画期をなしているが、その次には1923、4年という時期を、官僚・政党の反共運動がはっきりした形をとりはじめる時期として注目しなければならない。すなわち1923年をみると2月のヨッフェ来日につづいて、6月にはいわゆる第一次共産党の検挙が行われ、9月には関東大震災が突発する、そして震災による社会秩序の弱体化を補強するために、11月10日には「国民精神作興ニ関スル詔書」が発せられたが、12月27日に至ると、今度は難波大助の摂政狙撃事件(虎の門事件)がおこり、支配層に激しいショックを与えることになる。つまりこうした1923年の状況は支配層にとって、社会秩序の混乱から天皇制そのものへの攻撃が生れてくるような危機としてうけとられたのであった。

 しかし、といっても、天皇制を攻撃する思想や運動が顕在化していたわけではなかった。むしろ、さきの小川平吉が、難波大助を「是れ実に露国共産党の先駆たる一兇徒(15)」としていることからもうかがえるように、コミンテルンの世界革命運動が社会の混沌のなかに浸透し、突如として天皇制におそいかかるといった事態がおそれられたのであった。いわば支配層が捉ええないような、不透明な混沌状態があらわれること自体が危機と感じられるようになったのであった。したがってそれに対する対応としては、天皇崇拝の強化と生活の簡素化とをセットにし、共同体的関係を美化しながら、共産主義の温床となる混沌状態を再整理してゆくことが意図されることとなる。

 1924年は、こうした意図をもった反共=国体明徴派が軍部・官僚・政党などの既成の政治勢力の内部からあらわれ、横断的に結合しはじめてくる画期であった。その大きな団体としては、内務官僚の指導により、修養団体を動員した全国教化団体聯合会(24年1月結成)、司法官を軸に軍人・高級官僚などを集めた平沼騏一郎の国本社(24年5月)、学者・軍人・貴族院議員など多様な国家主義者が小川平吉を中心に結成した青天会(24年12月結成、25年6月から新聞『日本』を発刊)などをあげることができる(16)

 これらの団体は相互に人的なつながりをもち、さらには在野の右翼勢力とも結びつきながら、次第に大きな政治的影響力をもつことになる。そして25年の治安維持法の制定は、同年2月法相の地位についた小川平吉が強力に推進したものであった(17)。といっても、これらの反共=国体明徴派の勢力がすぐさまファシズムの方向に動き出したというわけではなかった。治安維持法と同時に普通選挙法が制定されたことは、全体の政治構造のなかでは、なお議会主義的対応が優位を占めていることのあらわれと言えた。

 しかしこうした政治勢力が登場したことはファッショ的動向を増幅する場が与えられたことを意味するものであり、前述した北・大川らの活動も、こうした場のなかで可能なのであった。つまり反共を契機に、共産主義の温床そのものの除去をめざして登場したこれら反共=国体明徴的勢力は、次の軍部「革新」派による情勢のファッショ化への転換を可能にする条件を用意したものと言いうるであろう。



2 軍の「革新」派の形成

 北・大川が日本ファシズム史の上で、他の右翼活動家と異った地位を占めているのは、ファッショ化の主導的勢力となった軍部のなかにその力を及ぼしえた点によるものでもあった。軍部との接触は北よりも大川が早く、すでに大学卒業後の数年間に参謀本部から翻訳の仕事などを得ていたようであるが、積極的に意図的に軍部に働きかけ始めるのは、1919年の猶存社結成以後(その前年満鉄東亜経済調査局に入る)であったと思われる。たとえば大川が初めて陸軍省新聞班に岡村寧次を訪れたのは1920年のことであったと言う(18)。その後の具体的接触がどのように展開されたかは明らかでないが、社会教育研究所およびそれを改組した大学寮、そこを出発の拠点とした行地社などの活動を通じて軍部との結びつきを深めていったと思われる。

 『月刊日本』の記事によれば、1925年3月の社会教育研究所第3回卒業式には荒木貞夫少将が祝辞をのべ、同4月の大学寮入寮式には荒木少将のほか、秦大佐、東方大佐が来賓として出席している(19)。また、「満州事変」までの行地社関係集会での講演者、『月刊日本』ヘの寄稿者のなかには、板垣征四郎、松室孝良、金子定一、沼田多稼蔵、鈴木貞一、重藤千秋、橋本欣五郎など佐官級の幕僚将校の顔ぶれがみられる(20)

 これに対して北の周辺には青年将校が集り始める。1922年4月の西田税らの陸軍士官学校生徒の北訪問がその最初のものであったと思われるが、それは北の側からの積極的働きかけによるものではなかった。西田は最初大陸浪人的活動を志向し、19年頃から黒龍会に接触しているが、この関係から満川を知り、満川から北に紹介され、次第に国家改造の方向に転換していったとみられる(21)。したがって北と西田との結びつきは、猶存社の活動(22)の一つの成果であったという方が正確であろう。

 ともあれ、西田らによってはじめて士官学校に持ち込まれた北の『改造法案』は、秘密のうちにうけつがれて行ったとみられるのであり、西田より三期あとの菅波三郎は、1925年4月頃に、下級生から朱色ガリ版刷の『改造法案』をうけとったという(23)。もっともこれら青年将校の運動が拡大してゆくのは、1925年6月、西田が退役上京(24)して、国家改造運動に専心するようになってからであるが、ともかくも、1925年頃には、北=西田=青年将校という青年将校運動の軸が出来あがったことに注目しておかねばならない。もちろん、北=西田によってすべての青年将校がリードされたわけではない。たとえば大岸頼好(西田の一期後輩)の場合は、むしろ彼等から離れた思想形成を行い、のちには農本主義的思想を吸収しながら西田と対立する形で青年将校運動のもう一つの核となるわけであるが、しかし、彼の場合でも北=西田の存在が前提とされ、そこから強い影響をうけていることは否定できない。

 このように、北、大川がそれぞれちがった形で軍部との結合を果しえたことは、軍部のなかに国家改造のイデオロギーをうけいれるような動きが、幕僚将校と青年将校というちがった階層のなかから、相互の直接の関係なしに形成されて来たことを意味していた。彼等はやがて軍「革新」派と呼ばれるようになるのであるが、すでに軍中央部に職を得ている幕僚たちと、士官学校生徒や隊付将校の地位にある青年将校たちとでは、国家改造イデオロギーへの接近の仕方が異るのは当然であった。大まかに言えば青年将校の場合には、国家の混乱の責任を支配階級の腐敗に求め、彼らを打倒して天皇の権威を軸とした国家の再建をはかろうとする点で朝日平吾的思考を基底としていたと言える。しかしさらにその上に国家の支柱としての軍隊という意識が加わり、そこに軍人としての使命感を見出してゆくというのが「革新」派青年将校の特徴であった。たとえば末松太平が北一輝『支那革命外史』のうち「私の心を先づとらえた」箇所として、維新革命において天下の大勢が暗殺によって決せられたという部分と共に、「古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則」という叙述をあげている(25)のは、彼等の使命感のあり方をうかがわせるものであり、また「国家ノ革命二軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ最終トス(26)」という西田の定式もこうした意識を示すものであったと言えよう。しかし隊付将校としての立場から彼等の活動は制約されており、独自の青年将校運動の展開は幕僚「革新」派の登場を前提条件としていたと言える。

 こうした青年将校の動向に対して、幕僚層の場合には、次の戦争のための国家総動員体制をいかにして確立するかという問題に強い関心があり、したがって、国家改造は、総動員体制のための条件として受けいれられたと考えられる。すなわち第一次大戦が総力戦の様相を呈したことは、総動員体制の確立が戦争遂行の必須の条件となるに至ったことを示しており、日本でもこの問題が広い関心を集めたことは、国家総動員法の先駆をなす軍需工業動員法がすでに1918年4月に公布されたことからもうかがわれる。とくに陸軍の場合には、1915年9月、臨時軍事調査委員会を発足させて、参戦諸国の動員の実態調査を開始しており、同委員会委員の、永田鉄山少佐は、すでに20年5月「国家総動員に関する意見」と題する報告書を作成していた。そして幕僚「革新」派形成の端緒とされる「バーデンパーデンの盟約」も、こうした動向から生み出されたものであった。

 1921年10月27日、当時ヨーロッパに駐在あるいは出張中であった永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次(陸士16期の同期生・少佐)は、ドイツのパーデンバーデンに集り、「永田を中心とした彼ら3人は『ルーデンドルフの総力戦論』などを話題にして快談、あらためて軍の近代化を目指し、特に派閥解消(人事刷新)、軍制改革(軍備改変、総動員態勢確立など)の大目標に向って同志を結集することを盟約し」、翌日には一期後輩の東条英機、鴨脚光弘を呼んでこの盟約に加えたという(27)。この盟約は、(1)旧藩閥関係による部内の対立を一掃し、総力戦を戦いうるような人材をも り立てること、(2)軍備の近代化、機動化をはかること、(3)国家総動員体制をつくりうる準備を平時から行うこと、という三つの内容に整理することができる。そしてそのために、彼等は帰国後1923年頃からしばしば会合し(二葉会あるいは同人会と呼ばれた同志の結集をはかっていった(28)

 ところで、こうした幕僚「革新」派形成の時期は、ちょうどワシントン会議以後の、海軍から陸軍に及ぶ軍縮が実現された時期にあたっており、この平和主義的風潮の下では彼等の活動の余地は少なかった。軍需工業動員法に伴って内閣に設置された軍需局は翌20年には国勢院に吸収され、その国勢院も22年の行政整理で廃止されてしまっていた。したがって彼等は総動員体制実現の手がかりをどこに求めるかに苦慮しなければならなかったと思われる。

 総動員体制の準備は大まかに言えば、2つの側面で考えられていた。1つは物的資源の確保と諸産業の統制・軍需への転換の計画化といった問題であり、もう1つは、国民を総動員体制に適応する方向に如何に誘導し、動員してゆくかという問題であった。この後者の観点からみれば、前述した反共=国体明徴を軸とする国民再把握の気運は、総動員準備の方向に利用しうる性格を持つものであった。そしてこの機をねらって実行された宇垣陸相による陸軍軍縮は、まさに一歩後退しながら総動員体制実現の手がかりをつかむことをねらったものであった。宇垣自身「国民の輿論を国軍の革新に利用し指導(29)」するとその軍縮の意図を述べているが、1925年3月に実施された四個師団廃止という思い切った軍縮は、実は一石三鳥の効果をねらっていた。すなわちそれは第1には、軍縮を要求する世論に一応の満足を与え、第2には、それにより節約した費用で装備の近代化を実現する。そして第3には、師団廃止の代償として、教育に対する軍の影響力の拡大を要求する、というものであった。この最後のものは、現役将校の中学校以上への配属と青年訓練所の設置による軍事教練の実施として実現される。青年訓練所は小学校から上級学校へ進学しない青年を対象とし、修身、公民科、教練、普通学科、職業科などの授業を行おうとするものであったが、訓練所卒業者に兵役在営年限の半年短縮という特典が与えられたことからも明らかなように、そのうち最も重視されたのは教練であった。しかしそれはたんに軍事訓練の普及を意味するばかりでなく、訓練所の指導員に在郷軍人を送り込むことによって、在郷軍人の組織化を強め、さらには在郷軍人会・青年訓練所・青年団の間を密接に結びつけることにもなるはずであった。そしてこれらの組織は、国民を総動員政策に誘導するための中軸となることを期待されたのであり、実際にのちのファッショ的組織化の推進者ともなるのであった。1926年に始まる右翼的大衆示威としての建国祭、28年に始まる防空演習などは、これらの諸組織を実際に動員し、育成するという効果をねらっていたと考えられる(30)。こうした宇垣の構想を支持した岡田良平文相は、教化運動の一翼を担う報徳会のリーダーであり、ここにも総動員準備と教化運動の関連を読みとることができる。

 宇垣軍縮実施の翌年、1926年4月には内閣に国家総動員機関準備委員会が設置され、総動員計画のための調査立案を行う中央機関を設ける方針が確定した。この動きをリードしてきた陸軍は、早速同年9月には総動員政策のための部局として、動員課・統制課の2課より成る陸軍省整備局を新設する。初代動員課長には永田鉄山が、ついで二代目の課長には東條英機が就任した。翌27年5月には準備委員会の審議にもとづき、総動員業務を管掌する中央機関として内閣資源局が設立され、総動員政策が国策のレベルに登場することになる。

 しかし戦争のための資源を如何に確保するかという観点からすれば、国内の資源調査と調達計画の立案を中心とした資源局の業務は、その要請を部分的に満足させるものでしかなかった。そして総動員政策という観点から言っても、より重要なのは、中国、とくに日本の権益が存在するいわゆる「満蒙」の確保の問題であると考えられ、ここから総動員政策からする対外政策への要求があらわれることになる。1927年後半期に、当時北京公使官付武官であった本庄繁は、その意見書のなかで、「国防ノ見地ヨリシテ満蒙ノ資源力帝国生活上ノ策源タリトノ意義ハ該地ノ物資力一朝有事二際シテ直二完全ニ我国家総動員ノ要求ヲ満シ得ルニ於テ始メテ成立スルモノニシテ従テ平時ヨリ満蒙一帯ヲシテ此要求ニ応シ得ルノ姿勢ニ在ラシムルコト絶対二必要ナリ、我満蒙政策ノ真諦亦実二ココ二存ス(31)」と述べているが、こうした主張は当時としては決して特異なものではなく、総動員問題を考える場合に、まず最初に着眼される観点であったと思われる。つまり、総動員問題は対中国問題と結びつく形で発展していったのであった。

 幕僚「革新」派の形成の観点からみても、総動員政策の推進を中心課題としたはずの永田らは、最初から、中国における特務機関での活動歴などをもつ中国派とでも言うべき将校たちを同志として結集していった。二葉会が始動する1923年をみると、さきのバーデンバーデン組と会合をくり返しているのは、板垣征四郎、河本大作らであり、のちには土肥原賢二もこのグループに加入したとみられる(32)。つまり幕僚「革新」派は、総動員政策の推進と、「満蒙」支配の確立という二つの関心を軸として拡大してゆくのであり、したがって「満蒙」権益の動揺という問題には極めて敏感に反応する性格をもっていたと言えよう。実際にもまた、彼らが勢力を拡大してゆく時期には、一方では張作霖がたんなる日本の傀儡に満足せず、日本の権益と対抗して自らの力を強化しながら中国中央政局への介入をねらい(33)、他方では中国ナショナリズムが高揚し国民党軍の北伐が始まるという形で中国情勢は急転しつつあった。そしてこうした情勢に対する対応策として、「満蒙」の実質的領土化の実現へと、幕僚「革新」派は策動し始めるのであった。 すでに1926年12月、大川周明は彼等と「満蒙問題の根本的解決」について討議していた(34)というが、このことは、この時点で「満蒙問題」が総動員政策派、国家改造派、反共=国体明徴派などを連動させてゆく結節点となりつつあったことを象徴しているとも言えよう。若槻内閣を倒し田中内閣を成立させるにあたってはこれらの勢力の策動が大きな力となっているし、田中内閣はまた、これらの勢力に活動の機会を与えるものであった。緊急勅令による治安維持法改正は、反共=国体明徴の潮流を格段に強化するものであったし、また田中外交に乗じた河本大佐の張作霖爆殺事件は、これまでみてきたような諸勢力をファッショ的方向に誘導するきっかけとなるものであった。

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